海峡のまちのハリル
『海峡のまちのハリル』
三輪舎
A4版変形 | 上製 | 58頁 | 特色4色
刊行日:2021年12月21日
価格:2,970円(税込)
Collaborator’s Profile
小林豊(こばやし・ゆたか)
1946年、東京生まれ。日本画家・絵本作家。主な作品に、『せかいいちうつくしいぼくの村』(産経児童出版文化賞フジテレビ賞)、『ぼくの村にサーカスがきた』、『せかいいちうつくしい村へかえる』、『えほん 東京』、『まち ぼくたちのいちにち』、『えほん北緯36度線』(以上ポプラ社)、『イナヅマごうが やってきた』(福音館書店)、『淀川ものがたり お船がきた日』(岩波書店)などがある。
あらすじ
ときは、いまから百年まえ。
かつて世界の中心といわれた
皇帝(スルタン)の大帝国が、
たそがれの時代をむかえていた——。
伝統芸術のマーブリング紙「エブル」をつくる
職人の家に生まれ育った少年ハリルは、
周囲の友だちは新設された学校へ通っているのに、
祖父にこき使われる毎日。
軍艦の船長になり、行方不明になった父親の
帰りを待ちこがれている。
一方、日本からやってきた貿易商の息子たつきは、
異国の不慣れな土地で折り紙遊びを
しながら暇を持て余している日々。
そんなふたりが海峡のまちで出会い、
友情を深め、おたがいの感性をとおして、
このまちに生きる自分を見つめ直していく。
登場人物紹介
ハリル
海峡のまちに住む少年。
軍艦の船長の父さんが遭難し、紙職人のじいちゃんの仕事を手伝わされることになる。
たつき
日本からやって来た少年。
父親のお店の店番をしながらいつも折り紙をして遊んでいる。
アフメットじいちゃん
紙職人。
伝統模様のエブルをつくる腕は一流だけど、最近はお客さんもめっきりいなくなり……。
本のぽいんと――みんなで話そう、トルコのこと
絵になる景色があるように、本になる景色がある。
それが「本のぽいんと」だ。
本の世界を旅したら、本の舞台も旅してみよう。
トルコのこと
ぼくたちが住む日本から地図を見て、ずっと西のはしにあるアジアの国、トルコ共和国を知っているかな? 歴史の教科書ではあまり触れられないけれど、トルコ共和国のまえにオスマン帝国という今となっては幻のような大帝国があったんだ。オスマン帝国は、最盛期は中東からアフリカまでまたにかけた広い土地を支配して、1922年まで約600年も続いた。日本でいうと江戸時代みたいだね。この物語の舞台となっているイスタンブルは長いあいだ帝国の都だった。
この国では、すべての人が平等だったわけではないけれど、異なる民族、異なる宗教の人たちが、お互いの違いを認めあいながら暮らしていた。だけど、ヨーロッパの国々の植民地争いや、「ひとつの国にひとつの民族」という考えが広がるなかで、この国はしだいに力を失い、滅びていく。
ハリルやたつきは、そんな夕暮れのような時代を生きている。夕暮れの時代ではあるけれど、それでもなおうつくしい海峡のまちは、世界中のひとびとをひきつけてやまず、行き来が絶えることが決してない。
このまちには、もちろんトルコ人が多く住んでいる。だけど、まちをあるけば、新市街にはヨーロッパの商人がいたり、渡し船の船頭はギリシア人がつとめていたり。古くからある旧市街のバザールには、アルメニア人、ユダヤ人、エジプト人…、実にいろんなひとたちがそれぞれの得意なことをいかして暮らしていた。
ちょうど、明治時代の日本人も世界を自分の目でみつめようと、このまちを訪れ、そこからいまにつづく日本とトルコの交流もうまれたんだよ。
これから、ぼくたちは、いろんな国の、いろんな人たちとともに生きていくことになる。とおい時代の異国の話だけれど、いまにつながるなにかがみつかるといいな。
エブルのこと
エブルについて、少し詳しく紹介するよ。
エブルは、水面に描いたもようを紙に写しとるトルコの伝統的な装飾画で、中国で製紙法とともに生まれたといわれている。エブルはどのひとつとして同じもようがない。だから、にせものを防ぐために役所の書類に使われたり、美しい詩の用紙として使われたりしていたんだ。本の装丁をうつくしくするかざりに使われることもあった。
751年に中国の唐と西アジアのアッバース朝が争ったタラス河畔の戦いで、製紙法が西に伝わったと言われている。だけど、広がったのは、紙づくりの技術だけではなかったんだ。
エブルが東の日本にも伝わって墨流しという絵になった、という説もある。だけど、むかしのことなので、それが本当かどうかは今となってはだれにもわからない。
歴史の本を読んでみると、西アジアの世界に製紙法とともに紙の文化が広がるとき、トルコ系民族のウズベク人が果たした役割が少なくなかったようなんだ。ウズベキスタンの首都サマルカンドではかつてサマルカンドペーパーと呼ばれる、麻のボロ布などを原料にした手すきの紙が作られていた。和紙みたいだね。その技術がエスファハーン、バグダード、イスタンブル……と、そのころ世界の中心にあったいろんなまちに広まっていった。
紙の文化とともに広がったエブルは、イスタンブルで独特の発展をすることになった。チューリップや、バラ、カーネーションのもよう、ハートもよう……。単なる波もようだけではあきたらず、まちのひとびとが愛する草花を中心にいろんなモチーフがつくられるようになっていった。
そのうつくしさに目をつけたイタリアの商人たちがエブルを「マーブリング(大理石もよう)」と呼んでヨーロッパに広めたんだ。だから、エブルはマーブリングという名前で世界に知られることになる。
だけど、産業革命が起こると紙は機械で大量印刷できるようになり、本家のトルコでは手作りのエブルはしだいに廃れていった。マーブリングのもようは、ヨーロッパでは包装紙によく使われた。職人が一人また一人と減っていくなかで、最後までエブルの技術を守り抜いたのがアフメットじいちゃんのようながんこなウズベク人だった。それが今はトルコの伝統絵画のひとつとして、たくさんのひとたちが身近にふれるものになっている。ある国の文化を守るのは、「ひとつの民族」では決してなかったんだ。
いま、トルコのエブル作家たちは、人物から風景まで、油彩や水彩のようにさまざまなモチーフを描きはじめ、新しい絵画手法にしようと努力を続けている。
ぼくとエブルの出会い
ぼくは大学生のころ、イスタンブルに留学し、学校にはあまり行かずにエブルを習っていた。この作品は、その時の経験から生まれたものだ。
たまたま美術館の展覧会で目にしたエブルがまったくみたことがないあたらしいもので、パンフレットに書かれていた作者の電話番号にたどたどしいトルコ語で電話をかけ、たずねたのが始まりだった。作ったのは、フスン・アリカンさんという女性作家。後々知ったのだが、フスン先生は、エブルを新しい絵画手法として確立しようとしていた作家たちの中心にいる一人だった。
まんまるくておしゃべりのフスン先生は、ほっそりしてものしずかなギュルユズ先生とコンビを組んでいて、二人そろうと魔女のようだった。ぼくがエブルを習いたいと伝えると、先生は「もう新しいコースは開かないから、最後の教え子になるかもしれないわね」といって、あたたかく受け入れてくれた。そして、はやく先生のような現代風のエブルを作ってみたいと考えていたぼくに、「エブルは道具づくりからはじめるのよ」と告げると、必要な材料のリストを渡し、バザールでの買い物旅行へと放り出した。
意外な展開となったが、ぼくはわくわくしていた。筆、溶液、絵の具、用紙……。エブルに使われる材料は世界最大の屋根つきバザール、グランドバザールや、香辛料屋が軒を連ねるエジプシャンバザールの近くにあった。よく知られた観光地だが、観光では決して足を踏み入れることがないところにお店はあった。花屋に売れ残りのバラのくきをもらったり、モスクの広場にある屋台でじゅずのひもを買ったり、壁一面に黒々とブラシが並ぶデッキブラシ屋で馬のしっぽをもとめたり。買い物自体が、異文化をめぐる旅だった。
画材屋に行けば、できあいの道具は売られていた。だけど、せっかく習うなら、伝統的な作り方を知っていてほしい。買い物旅行には先生のそんな想いが込められていた。結果的に、ぼくはこの買い物旅行からはじまった、エブルのレッスンを通じて、トルコという国、イスラームの文化について、いちばん多くのことを学ぶことになった。
10年前のぼくはエブルをすっかり好きになり、日本で最初の作家になろうとした。だけど、思いだけが空回りし、何ひとつ形にならないままあきらめた。しばらくして取材や本づくりの仕事をはじめたぼくに、ずっと書くことをすすめ、絵本のつくり方を惜しみなく教えてくださったのが、小林豊さんだった。ぼくは小林さんのことを人生の師匠だと思ってきた。20歳のころに出会い、トルコという国の存在も、世界中を旅してきた小林さんに教わった。そして、こんなすてきな絵まで描いていただくことになった。正直にいえば、夢かと思ったよ。
このようにして生まれたこの作品は、ぼくなりの「エブル」なのかもしれない。
ただ、悔やまれることに、10年の間にフスン先生が亡くなってしまい、作品を見てもらうことができなかった。きっと先生が見たら、ぼくのエブルをみていつもいっていたように
「チョック・ギュゼル(とてもすばらしい)。でも、ヤスフミ、ここはもっとこうしたほうがいいわね……」
といいながら、満面の笑みでよろこんでくれただろう。
先生、ごめん。
そして、ありがとう。
ぼくは本当に最後の教え子になってしまった。
ただ、あなたが教えてくれたことはここに生きている。
そう信じている。
この本をフスン・アリカン先生とその家族、
そしてアトリエの仲間たちに捧げる。
本の世界を旅したら、本の舞台を旅してみよう
イスタンブルで、『海峡のまちのハリル』を歩く
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Eminönü(エミノニュ)
イスタンブルの旧市街から新市街へ、あるいはヨーロッパ側からアジア側へと向かうフェリーが発着する。近くに国鉄や、路面電車「トラム」の駅もある出会いと別れの舞台。ときどき田舎からきた許可なしの物売りが警察官に追いかけられていることも…。
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Mısır Çarşısı
(エジプシャンバザール)日用品が集まる商店街。世界中からものが集まってくる。香辛料屋の軒先に干した植物がたくさんぶら下がっている。エブルの水に溶かすキトレと、絵の具に使うインディゴは香辛料屋に売っていたよ。インディゴはパキスタンのラホールというまちから運ばれてきた。入り口のところにオスマン帝国の宮廷料理を出すレストランもあるよ。
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Kapalıçarşı
(グランドバザール)迷路のような路地をあちこち探して、馬のしっぽを売っているブラシ屋をみつけたんだ。バザールの中にあるハンは、もとは異国からきた旅の商人たちが寝泊りする隊商宿だった。いまはハンというと、「専門店街」のことが多いかな。何階建てかのひとつの建物に時計屋とか洋服の生地屋とか同じ種類のお店がところせましと集まっているんだ。
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Galata Köprüsü
(ガラタ橋)旧市街と新市街をむすぶ橋。昔は万国橋ともいわれ、あらゆる民族、宗教の人たちが行き来してきたよ。そのころは橋を通るのにお金がかかったんだって。今は、天気のいい日には、つり糸をたらして魚釣りをたのしむおじさんをたくさん見かけるよ。
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Galata Kulesi
(ガラタ塔)14世紀にジェノバ人が建てた見張りの塔で、いままで何度も建て替えられてきた。オスマン帝国時代の17世紀にここから世界ではじめて人工の翼で人が飛んだ、という逸話も残っているんだ。6世紀にはすでに灯台があったと言われているよ。
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İstiklal Caddesi
(イスティクラール通り)エミノニュの桟橋から対岸にわたり、世界で2番目に古い地下鉄にのると、丘の上のイスティクラール通りはすぐそこだよ。目抜き通りには、洋風のはなやかなお店や古いホテルが並ぶ。路地裏には古本屋や居酒屋、一人で歩くとこわい暗がりも。
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Kadıköy
(カドゥキョイ)旧式の赤い路面電車「思い出トラム」にのって、まちの中心部をぐるりと回ることができるんだ。毎週土曜日になると、トラムに乗ってエブルのアトリエに通ったよ。この辺はカフェが多いのだけど、世界初のオープンカフェもじつはトルコで生まれたんだ。
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Üsküdar
(ウスキュダル)古くから栄えた港まちで、海岸にはオスマン帝国時代に宮廷の人たちが舟遊びを楽しんだうつくしい宮殿や別荘もみえるよ。宮廷画家ファウスト・ゾナロが舟遊びの様子を描いた絵画「ギョック・スウ」(ペラ博物館)は恋に落ちるほどうつくしい! かつてこのまちについて歌った「ウスクダラ」という民謡が日本で紹介されたこともある。日本との交流は続いていて「渋谷通り」という道もあるんだ。みつけられるかな?
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Sultantepe
(スルタンテぺ)ウスキュダルには、エブルの技術をいまの時代に伝えたウズベク人の末裔が住んでいる丘がある。それがスルタンテペの丘だ。何百年も前の古いエブルを見せてもらったことがある。ご先祖さまの仕事を誇らしげに紹介してくれたよ。